太平洋戦争期の千代ヶ崎砲台

写真1 千代ヶ崎砲台第2砲座
写真1 千代ヶ崎砲台第3砲座。太平洋戦争末期まで28センチ榴弾砲がここに設置されていました(2018年2月17日小形克宏撮影)

 

はじめに

千代ヶ崎砲台跡でガイドを始めて1年余りが経ちました。ガイドの中で千代ヶ崎には1944(昭和19)年10月まで28センチ榴弾砲が備砲されていた話をすると、そんな時代までこんな骨董品のような大砲が置かれていたのかと驚かれるお客様もいらっしゃいます(写真1)。今回は太平洋戦争期における千代ヶ崎砲台について、関連書籍から紐解いてみようと思います。

28センチ榴弾砲について

まず、千代ヶ崎砲台の主砲、28センチ榴弾砲について簡単にご紹介します。明治政府は1880(明治13)年より海岸要塞の建設に着手しますが、当時の国内の造兵技術はまだまだ未熟で、製造施設も不備であったため、大口径の大砲はドイツ、フランス、イギリス等外国から輸入するほかありませんでした(注1)

その後、大口径大砲の国産化を進めることになり、イタリア砲兵少佐グリロー指導の下、1885(明治18)年に陸軍大阪砲兵工廠にて第1号砲が完成したのが28センチ榴弾砲で(注2)、当時国産としては最大口径の大砲でした。国内の要塞では、北は函館、南は奄美大島まで各地の海岸要塞に配備され、その総数は220門に達し、まさに日本陸軍を代表する要塞砲とも言えます(注3)

また、日露戦争中の1904(明治37)年には国内の要塞から計18門(横須賀からは計14門)が現在の中国・旅順に送られ(注4)、多大な戦果をあげたことで知られています。また同年7月にはロシアのウラジオ艦隊が津軽海峡を通過し、房総半島沖や伊豆半島沖で民間の帆船を撃沈するなどしましたが(注5)、千代ヶ崎砲台をはじめ東京湾内の各砲台が戦闘配備に就いていたため、ウラジオ艦隊は東京湾には侵入せずに帰港した等、飛行機のなかった明治時代においては海岸要塞の存在意義は高いものでした。

その後、第1次世界大戦(1914年~1918年)の際に大砲の技術は世界的に進歩を遂げ、日本でも1918(大正7)年に7年式30センチ榴弾砲、7年式15センチ加農砲といったより強力で長射程の要塞砲が制式化され、28センチ榴弾砲の射程距離では閉鎖できなかった津軽海峡や豊予海峡などに新設された要塞に据え付けられます。

そして大正末頃、航空機時代が到来して旧式化した28センチ榴弾砲を装備した砲台の多くは廃止されていきます。

 

太平洋戦争開戦時の東京湾要塞

東京湾要塞は東京湾への外国艦船侵入を阻止するため、1880(明治13)年から1938(昭和13)年にかけて合計32ヵ所の砲台が陸軍により築城されました。

千代ヶ崎砲台には普段兵士は常駐せず、配備命令が出て横須賀重砲兵連隊から兵士が派遣されて防備に就いたそうです。では太平洋戦争時は何人くらい兵士が派遣されたのでしょうか。

太平洋戦争開戦時における重砲兵連隊の編制は、現在の三浦市岩堂山に重砲兵連隊本部、同三崎に第1大隊(第1中隊・城ヶ島砲塔砲台、第2中隊・剱崎砲台、第3中隊・千駄ヶ崎砲台)、現在の館山市見物に第2大隊(第4中隊・金谷砲台、第5中隊・大房岬砲塔砲台、第6中隊・洲崎第1砲塔砲台)となっており、他は臨時編制でした(図1、注6)。開戦に備え1941(昭和16)年11月22日から26日にかけて、これらの砲台で実弾試験射撃訓練が実施されています(注7)

図1 1941(昭和16)年11月の東京湾要塞連隊の編制
図1 太平洋戦争開戦時における東京湾要塞連隊の編制。東京湾口部の地形を生かし、扇形に配置されていることが分かります(筆者作成)

また、終戦時に重砲兵学校長を務めた北島驥子雄きねお元中将が書いた『砲兵沿革史』第1巻「要塞兵備の変遷」(以下『要塞兵備の変遷』)には、「明治時代の火砲中、なお利用し得る27加・15加・12速加・28榴等の一部は、昭和年代においても依然要塞の兵備として存置されたが、これ等の火砲は一種の案山子かかしに過ぎず、兵備の主体は大正以後に制定された7年式30榴、同15加、同10加、及び海軍から保管転換された砲塔40加、同30加等に換えられた。」とあります(注8)

前述した1941(昭和16)年に実際に守兵が配備された砲台の装備を見ると、多くは北島が挙げたものに重なります。中でも目を引くのは最大射程距離が約27kmにも達する洲崎第1砲塔砲台に装備された30センチ加農砲です(注9)。砲台の位置も城ヶ島や洲崎など半島の先端部の砲台が多く、敵艦艇を横須賀軍港や帝都からできるだけ離れた地点で迎撃しようとしたことが伺えます(注10)

 

この30センチ加農砲は千代ヶ崎砲台に隣接する千代ヶ崎砲塔砲台にも装備されていました(写真2)。これは1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約に伴い廃艦となった戦艦鹿島(英国にて1906〈明治39〉年建造)の主砲、30センチ加農砲を陸上砲塔に改修したものです。「改修試験砲塔として各種技術的参考とし(…)重砲校の演習砲塔としてこれが使用ならびに要員の養成機関たらしめる方針」(注11)によって1925(大正13)年に完成したもので(注12)、太平洋戦争中も「臨機使用砲台」つまり予備とされ、終戦時まで存続しました(注13)

写真2 千代ヶ崎砲塔砲台地下施設跡。機関室や畜力機室があり、砲塔は上部に据えられました(2022年3月29日筆者撮影)
写真2 千代ヶ崎砲塔砲台地下施設跡。機関室や畜力機室があり砲塔は上部に据えられました。なお、隣接する「ファーマシーガーデン浦賀」敷地内で、通常見学はできません(2022年3月29日筆者撮影)

大正末頃に廃止された砲台のうち、第2海堡、猿島、夏島、小原台、箱崎等は陸軍から海軍に移管され、横須賀軍港を防衛するため対空砲台として終戦時まで利用されたものも多いですが、千代ヶ崎砲台には軍港との地理的関係か対空砲が置かれることはありませんでした。ただ、付近の川間山には低空飛行の航空機を狙う機銃砲台は置かれたそうです(注14)

つまり、太平洋戦争期における千代ヶ崎砲台は28センチ榴弾砲が備砲されていたものの兵士は配備されず、航空機を攻撃する対空砲もない重要度の低い砲台であったことが分かります。

では28センチ榴弾砲は昭和19年10月に撤去されるまで、なぜ千代ヶ崎砲台に置かれたままだったのでしょうか。

対潜水艦戦闘と海岸要塞

『要塞兵備の変遷』によれば「昭和5年頃より要塞兵備の重点を潜水艦防禦に変更する意見が強まり」とあります(注15)

航空機のなかった明治時代とは違い、太平洋戦争においては1942(昭和17)年4月に米航空母艦より発艦した爆撃機による日本本土への空襲が実施され、わざわざ大きなリスクを背負って艦艇によって東京湾に侵入する必要性はなくなり、千代ヶ崎砲台のような海岸要塞の存在意義は小さくなったと思われます。

そんな太平洋戦争期においても、外国潜水艦が潜航状態で東京湾内に侵入していた可能性はあったかも知れません。現在の三浦市にあった剱崎砲台では太平洋戦争開戦当初に敵潜水艦らしきものに対し、海軍の水中聴音機の協力により20発の射撃を行ったそうです(注16)。しかしどのようにして海中を潜航する潜水艦を捉え射撃できたのでしょう。

写真3、4は和歌山市友ヶ島に残る海軍聴音所跡で、大阪湾に進入しようとする潜水艦の警戒のため、海中のスクリュー音を聴く機械などがあったそうです。

写真3 和歌山市友ヶ島海軍聴音所跡正面
写真3 和歌山市友ヶ島海軍聴音所跡正面。海のそばですが波の音がまったく聞こえない高所にあります(2022年8月5日筆者撮影)
写真4 聴音所内部の聴音機台跡
写真4 聴音所内部の聴音機台跡。内部はいくつもの区画に分かれています(2022年8月5日筆者撮影)

しかし『要塞兵備の変遷』には「潜航する潜水艦の捜索は水中聴音機に依存するのほか他に手段なく、射撃のためにもまたこれを必要とするに拘らず、壱岐要塞の渡良地区に唯一の水中聴測所があっただけで他の各要塞には全くこの種聴測機関の装備を欠いていた。一部を除く各要塞には海軍の聴測機関を若干配置されていたが、これと要塞との協力に関して確乎たる陸海軍間の協定なく、ただ海軍側の現地機関から好意的の協力を受けるに過ぎなかった。従って要塞部隊が対潜水艦戦闘のため、自主的に海軍の聴測機関を利用するが如きことは全く不可能であった」(注17)とあります。

千代ヶ崎砲台にも聴音所はなかったと思われ、観測所からの「目視」でしか潜水艦を捉えることはできなかったはずです。敵潜水艦が潜望鏡のみ水上に出しての潜航状態を目視で捉えようとしていたのでしょうか。千代ヶ崎砲台が「本気」で対潜水艦防備についていたとは考えにくいです。

東京湾要塞と本土防衛

東京湾要塞では1937(昭和12)年に始まった日中戦争以降、旧満州や宗谷海峡の要塞に転用された大砲も多くあり、「サイパン、硫黄島、アッツ島に移され、砲身も裂けるほど撃ちまくった」(注18)大砲もあるそうです。

しかし28センチ榴弾砲は大口径であるが故、その砲身だけで重量が約10.7トンもあり(注19)、大正に制式化された、当時の主力である7年式15センチ加農砲の砲身重量約6.5トンと比べても重く(注20)、移設作業に多大な労力を必要とします。しかも千代ヶ崎砲台の砲座はすり鉢状になっており、重量物を運搬する車両は砲座内へ入る事ができません。そのため旧式火砲である28センチ榴弾砲は、無用の長物と化したまま1944(昭和19)年10月まで千代ヶ崎砲台に置かれていたのではないでしょうか。

しかしながら、同年夏のマリアナ諸島陥落以降、米軍の関東上陸が現実味を帯びてくる中、10月に東京湾要塞では沿岸築城の実施について下令され、敵の本土上陸に対する本格的な作戦が開始(注21)、房総半島の戦備強化のため臨時砲台がいくつか築城されます(注22)

その頃すでに国内では兵器や資材は大いに不足しており、やむを得ず千代ヶ崎砲台に置かれていた28センチ榴弾砲を房総の臨時砲台に移設したのではないでしょうか。1945(昭和20)年7月末には江戸時代に活躍した青銅製15センチ臼砲(いわゆる大筒)が中央より交付されたとあり(注23)、いかに兵器が不足していたか分かります。千代ヶ崎砲台にあった6門の28センチ榴弾砲のうち4門は金谷砲台へ、2門は範部隊へ交付されています(注24)

なお、この臨時砲台については、「終戦時においてなお、重要拠点における備砲及び骨格陣地さえ未完了のものが多く、まがりなりにも本土決戦準備が整ったと言い得る状態にはなかった。」(注25)とあります。

また、28センチ榴弾砲が撤去された後の千代ヶ崎砲台では、1945年6月に観測所の鋼製掩蓋(写真5~7参照)を撤去し、食料と輸送手段確保のため捕鯨船や軍所有輸送船の防弾室設置に使用しています(注26)

写真5 鋼製掩蓋が撤去された千代ヶ崎砲台右翼観測所跡
写真5 鋼製掩蓋が撤去された千代ヶ崎砲台右翼観測所跡。「ファーマシーガーデン浦賀」敷地内にあり、通常見学はできません(2022年3月29日小形克宏撮影)
写真6 鋼製掩蓋が残る友ヶ島第1砲台右翼観測所跡
写真6 鋼製掩蓋が残る友ヶ島第1砲台右翼観測所跡(2022年8月5日筆者撮影)
写真7 同右翼観測所跡
写真7 同右翼観測所跡。野ざらしですが掩蓋はあまり腐食してません(2022年8月5日筆者撮影)

最後に

太平洋戦争中の千代ヶ崎砲台は、写真もなく東京湾要塞の歴史を記した本にも具体的な記述がありません。少し前なら東京湾要塞司令部におられた方から直接お話を伺えたかも知れませんが、今ではそれも困難です。そこで太平洋戦争期の千代ヶ崎砲台を、残された資料からできるだけ辿ってみました。

横須賀市では千代ヶ崎砲台跡を平和教育の場として、入場もガイドも無料で公開しています。みなさまもガイドの話に耳を傾けながら、戦争について考えてみるのはいかがでしょう。

注釈

注1……佐山二郎『大砲入門』光人社、1999年、p.171
注2……佐山二郎『機関砲 要塞砲 続』光人社、2012年、p.258
注3……前掲『機関砲 要塞砲 続』p.299
注4……前掲『機関砲 要塞砲 続』p.262
注5……原剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年、p.526(横須賀中央図書館収蔵)

注6……浄法寺朝美『旧海岸要塞 特に東京湾要塞について』陸上自衛隊施設学校、1965年、p.39(横須賀中央図書館収蔵)
注7……茶園義男編集、毛塚五郎資料提供『東京湾要塞司令部極秘資料 第3巻 特殊資料(Ⅱ)』現代史料出版、2004年、p.24(横須賀中央図書館収蔵)
8……『砲兵沿革史』第1巻、偕行社、1964年(北島驥子雄、第1編第7章「要塞兵備の変遷」国会図書館デジタルコレクション収蔵 https://dl.ndl.go.jp/pid/9577137/ 151-152コマ
注9……佐山二郎『要塞砲』光人社、2011年、p.547
注10……前掲『砲兵沿革史』第1巻、155コマ
注11……『砲兵沿革史』第3巻、偕行社、1962年(菅晴次、第3編第3章第3節「保管転換海軍砲」国会図書館デジタルコレクション収蔵 https://dl.ndl.go.jp/pid/9542019/ 32コマ)
注12……前掲『要塞砲』p.512
注13……毛塚五郎『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』私家本、1980年、第3巻4節、p.12(横須賀中央図書館収蔵)
注14……横須賀市編『新横須賀市史 別冊軍事編』横須賀市、2012年、pp.668-669(横須賀中央図書館収蔵)
注15……
前掲『砲兵沿革史第1巻『要塞兵備の変遷』154コマ
注16……前掲『要塞砲』p.122
注17……前掲『砲兵沿革史
第1巻『要塞兵備の変遷』159-160コマ
注18……前掲『旧海岸要塞 特に東京湾要塞について』p.9

注19……前掲『機関砲 要塞砲 続』p.303

注20……前掲『要塞砲』p.321
注21……前掲『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』第3巻4節、p.7
注22……浄法寺朝美『日本築城史』原書房、1971年、p131、(神奈川県立図書館収蔵)
注23……前掲『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』第3巻4節
p.23
注24……前掲『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』第3巻4節
pp.29-30
注25……前掲『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』第3巻4節
p.44
注26……前掲『東京湾要塞歴史 復刻版 集成版』第3巻4節
p.26