アパッチ族と千代ヶ崎砲台

千代ヶ崎砲台跡、第1砲側弾薬庫入口の破壊痕
写真1 第1砲側弾薬庫入口の破壊痕。ネジと六角ボルトで固定された木枠が残存しており、扉も木製だったことが伺える。(2021年12月5日筆者撮影)

◆ある考古学者の訪問

 

赤星直忠(あかほし・なおただ、1902-1991)という考古学者がいます。現在の横須賀市中里に生まれ、横須賀中学(現・横須賀高校)の卒業後、豊島小学校の代用教員を振り出しに、横須賀や鎌倉など生涯の多くを神奈川県で過ごしました。大正期から戦後にかけて教師や会社員のかたわら、神奈川県、とくに三浦半島の膨大な遺跡を発掘・調査したことで知られています。

 

その赤星が戦後間もない頃、三浦半島各所にあった陸軍の砲台を調査していたことが、彼の『三浦半島城郭史』でわかります(当時、旧軍施設の多くは大蔵省が管理していましたが、無人だったと考えられます)。

 

赤星といえば先史時代や中世古代の遺跡調査が思い浮かびます。1946(昭和21)年に神奈川県重要美術品等調査職員を委嘱されていますが、近代の砲台はいささか畑違いに思えます。他方、赤星には1922(大正11)年、20歳で志願兵として1年間を横須賀重砲兵連隊で過ごし、43歳の1945(昭和20)年に予備役砲兵少尉として応召した経歴があります。もしかしたら、彼は敗戦のショックから立ち直るためにも砲台を見て回り、その成り立ちを記録したかったのかもしれません。

 

その中で、千代ヶ崎砲台について次のような記述があるのです。以下、引用では読みやすさのために現代仮名遣いと算用数字に変え、読点を補ったことをお断りします。

 

昭和21年4月踏査の時には砲を失っただけで、堡塁砲台としての構造はそのまま残されていたが、27年3月再調の時には、既に各所は鉄材及び石材を取り外すために甚だしく破壊せられ、畑地となし得る限りの場所はすっかり開墾されたため、全く旧状を見ることができなくなっていたが、掩蔽壕だけはまだ見ることが出来た。(赤星直忠『三浦半島城郭史』下巻、横須賀市教育委員会、1955年、p.49 )

 

大事な部分なので箇条書きにしましょう。

  • 1946(昭和21)年4月の状態
    • 大砲がないだけで、砲台としての構造はそのまま残されていた
  • 1952(昭和27)年3月の状態
    • 鉄材や石材は取り去られ、破壊されていた
    • 畑地にできるところはほとんど開墾され、様子は一変していた
    • 掩蔽壕(引用者注:棲息掩蔽部か)だけはまだ見ることができた

◆アパッチ族の逆転劇

 

なるほど、赤星の証言により現在のような姿(写真1)になったのは、1946年4月〜1952年3月の約6年間のどこかであることが分かりました。では、誰が破壊し持ち去ったのでしょう? 私にとって焼け跡の略奪者と言えば、『日本沈没』で知られるSF作家小松左京のデビュー作『日本アパッチ族』(1964年発表)です。敗戦直後、大阪造兵廠(奇しくも28センチ榴弾砲の生産地!)跡地を牛耳った集団「アパッチ族」をモデルにした、アナーキーかつ悲哀に満ちたSF冒険活劇で、20代の頃に夢中で読んだ記憶があります(他にもアパッチ族に材をとった小説として開高健『日本三文オペラ』梁石日『夜を賭けて 』、演劇として明石家さんま主演、生瀬勝久脚本、水田伸生演出『ワルシャワの鼻』など多数あります)。

 

現在入手しやすいのは角川文庫版(KADOKAWA、2021年改版)とハルキ文庫版(角川春樹事務所、2012年初版)ですが、後者の解説で、SF評論家の巽孝之が作品の背景を上手にまとめてくれていますので引用しましょう。

 

アパッチ族と呼ばれる屑鉄泥棒の起源は、1945年8月14日、日本の無条件降伏の前日から説き起こさなければならない。この日、大阪城と猫間川にはさまれた東区杉山町に位置し、広さ36万坪、勤労者7万人を誇り、アジア最大といわれた兵器工場・大阪造兵廠が、B29の猛爆撃によって壊滅した。(…)そんな廃墟の商品価値に目をつけたのが、戦後から猫間川の運河をはさんだ対岸に約100軒ほどのバラック小屋を建てて住み着くようになった800人ほどから成る朝鮮人中心の集落の連中である。その寄り合い所帯は、人種的には南北朝鮮や日本の別はなく、稼業的にも金庫破りから自転車泥棒、それに一攫千金を夢見るあぶれものたちまでを含む構成だった。何しろ、いくら廃墟内部の残骸が国有財産とはいえ、財産目録に記帳されて所有権を最終的に確認されていない物件も少なくない。数百億円相当の屑鉄が眠る造兵廠跡へ伝馬船で忍び込み、屑鉄を掘り出せばカネになることはまちがいなく、現行犯でないかぎり逮捕されることもない。のちにここが「杉山鉱山」と渾名されるゆえんである。(同書、pp.363-364)

 

私なりにアパッチ族が小松をはじめ多くの作家を引きつけた理由を考えると、戦前の日本を支配した旧陸海軍が残した屑鉄を、かつて支配されていた人々が略奪する、逆転劇の痛快感があったように思います。とくに小松左京は1931年(昭和6)年1月生まれ、開高健は1930年(昭和5)年12月生まれで、敗戦時はともに14歳でした。彼等がアパッチ族を小説にした背後には、子供時代を戦争とともに過ごした辛い記憶があったと考えられます。

 

さて、小松達が描いたアパッチ族は大阪の話しでした。しかし勘のよい人ならお気づきでしょうが、当時まだ日本全国に「所有権を最終的に確認されていない」屑鉄が眠る旧陸海軍の施設が残っていました。「現行犯でないかぎり逮捕されることもない」となれば、各地で略奪者が続発したのも当然です。赤星も『三浦半島城郭史』で以下のように書いています。

 

我々が虚脱状態でいるうちに各砲台から金属という金属が全部失われていった。埋没電纜(引用者注:ケーブル)は最も早く掘り出された。(引用者注:進駐軍の武装解除により)輪切りにされた砲身も砲架もいつの間にか影をひそめた。砲架を固定していたボルト類から砲台付属の門扉の留め金に至るまで消えていった。数年たってようやく虚脱状態から立ち帰った筆者が、砲台の記録をするため各砲台を巡っている時にも、まだ人相風態ともによくない男の集団が砲座や掩蔽部を破壊しているのに時々出会った。かくて現在では、砲台のあとには痛ましくも破砕されたコンクリートや石材が散乱しているに過ぎなくなっているのである。(同書、pp.73-74)

 

小松や開高と違い、軍歴をもつ赤星から見れば「人相風態ともによくない男の集団」でしかなかったことに注意してください。こうした略奪者は大阪や三浦半島だけではありません。ちょうど同じ頃、山口県防府市で屑鉄商を旗揚げした若い朝鮮人女性がいました。彼女は太平洋戦争前に夫ともに日本に出稼ぎに来て、遊び歩く夫と民族差別に苦しみながらコマネズミのように働きつづけました。家族を養うために次々と仕事を変えていった彼女は、1950年5月4日、偶然屑鉄が高く売れることを耳にして、なけなしの財産をはたいて屑鉄屋を始めたところ、すぐさま人々が殺到しました。彼女の半生記『くず鉄一代記』(梁川福心、私家本、1989年)には、その頃持ちこまれた不穏なあるモノについて書かれています。

 

一番驚いたのは不発弾のような形をした鉄の塊です。「これは目方が重いから金になるぞ」と運び込んで来たのは長さが1メートル近くもあって、秤に乗りません。取引に追われる私が「半分に切ってくれんかね」と何気なく言ったところ、先方はたまげたように「ナニッ、これを切れというのかね。そんなことしたら爆発してみんな吹っ飛んでしまうぞ」と叫んだものだから、今度は周りのものが「なしてそんな物騒なものを持ちこむのか」と怒りだし、結局はそろそろと持ち帰ってもらいました。(同書、pp.206-207)

 

1メートルもある爆発物を町中に持ちこむとは、当時のアナーキーな狂騒がよくわかります。おもしろいのは、終戦後しばらく屑鉄の取引価格は、戦後復興を優先させたい政府により価格統制で安く抑えられていたことです。ところが朝鮮戦争(1950-1953)の開戦が近づくと、統制を無視して市中価格が高騰しはじめました。やがて統制価格と市中価格の乖離がひどくなり、誰も統制価格で売らなくなり、ついに政府は価格統制を取り下げてしまいました。今では考えられませんが、敗戦直後とあって政府の権威は地に落ちていたのです。以下は資源循環の歴史に関する論文からの引用です。

 

しかし、1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮動乱により鉄屑価格は急に値上がりし、(…)金へんブームが到来したのであった。鉄屑は統制価格も改正され昭和25年8月には4,500円、12月には6,380円になり、年末には市中価格が10,000円を超えるようになった。さらに、1951(昭和26)年の2月は統制価格が12,000円となり、市中価格も16,000円に跳ね上がり、3月末には統制価格停止令が公布され、鉄屑は自由競争時代へと突入したのであった。(浦野正樹、臼井恒夫、横田尚俊、下村 恭広『都市における資源循環システムの再編と地域社会の変動』平成15年度~16年度科学研究費補助金(課題番号15530345))

 

ということは、略奪そのものは敗戦直後から発生していたにせよ、1950年6月から始まる朝鮮戦争以前は、人を集めレンガを砕いて鉄材を引き剥がすほどの強い動機はなかったことになります。ここで、1946年4月は砲台としての構造はそのまま残されていたのに、1952年3月には破壊されていたという赤星の前述証言を思い出してください。つまり千代ヶ崎砲台跡から徹底的に鉄材が持ち出されたと推測される時期は、前掲『くず鉄一代記』に開戦直前から屑鉄高騰が始まっていたとあることを踏まえれば、1950年4月頃から赤星が再訪した1952年3月までの約2年間と考えられます。

千代ヶ崎砲台跡、第3砲座
写真2 海上自衛隊により埋められていた第3砲座が、横須賀市により発掘された直後の様子。開拓農民により砲床が畜舎に作り変えられていた様子がよく分かる。中央にコンクリートを細長く敷いて通路とし、その左右に杭を打った跡がある。画面奥には柵として使った部材がまとめられている(2018年2月18日筆者撮影)

 

◆バームクーヘンとしての千代ヶ崎砲台跡

 

千代ヶ崎砲台跡が明治中期の軍事遺跡であることは間違いありません。しかしここまで述べたように、アメリカ占領期(1945-1951)から朝鮮戦争にかけて、現代からは想像もつかない混乱の時代を証言する遺跡でもあるのです。

 

それだけではありません、詳しく触れる余裕はありませんが、1951年に大蔵省から農林水産省に所管が変わるとともに、翌1952年には食糧難の解消を目指して開拓農民に土地が払い下げられます。赤星の「畑地となし得る限りの場所はすっかり開墾」という記述から、彼が再訪したのもこの時期と考えられます。その痕跡が、第3砲座に残る畜舎跡です(写真2)

 

ただし、台地とあって水利が悪くあまり農業には向いてなかったようです(当時、開拓農民は砲台の貯水所を生活用水に使っていたとの証言があります)。やがて1960年には当時の防衛庁が一部を買収し、護衛艦等への通信業務を担う海上自衛隊千代ヶ崎送信所を開設しました。2010年に設備の陳腐化により機能停止し、2015年に国史跡に指定されるとともに文化庁に移管され(管理団体は横須賀市)、現在に至っています。

 

ところで、ここに軍事施設を築いたのは旧陸軍が初めてではありません。江戸時代後期の1811(文化8)年、会津藩がこの場所に平根山台場を築き、1837(天保8)年、通商を求めて来航したアメリカ商船モリソン号に対し、ここから浦賀奉行所が砲弾を放ち退去させました。その16年後の1853(嘉永6)年、モリソン号の教訓にもとづき、マシュー・ペリー提督が圧倒的な軍事力を見せつける砲艦外交によって通商条約を締結させました。つまり、ここはペリー来航の呼び水となった事件が起きた場所なのです(平根山台場そのものは千代ヶ崎砲台築造にあたって削平され、いまだにその痕跡は見つかっていません)。

 

このように、この土地は会津藩→浦賀奉行所→旧陸軍→大蔵省→農林水産省→開拓農民→海上自衛隊→文化庁とめまぐるしく所管が変わっただけでなく、その時代ごとの記憶がまるでバームクーヘンのごとく、層となって積み重なっているのです。

『三浦半島城郭史』p.11より
写真3 三浦半島城郭史 下巻 p.11より。同書には「千代ヶ崎砲台内」とだけある

 

◆おわりに

 

最後に『三浦半島城郭史』から、赤星が撮影した当時の千代ヶ崎砲台跡を紹介して筆をおくことにしましょう(写真3)。この写真が2回の調査のうちどちらで撮ったかは記載がありません。しかし樹木が繁る様子から、旧陸軍の管理を離れて久しい1952年3月と考えるのが自然です(こころなしか、破壊の跡もあるように見えます)。

 

時代の違いはあっても、奥へ続く塁道、左側に左翼観測所への交通路、右側に第2貯水所の入り口が覗く様子は、驚くほど今と変わりがありません。

 

人もまばらな黄昏時、1人で塁道を歩いていると、ふいに交通路の陰からガッチリした体格の男が出てくるかもしれません。首からカメラを下げ、片手にノートを持ったそのおじさんは、さて、どんな言葉をかけてくれるでしょう?

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コメント: 4
  • #1

    小曽戸 聡 (土曜日, 11 12月 2021 23:30)

    なかなかの力作ですね。素晴らしい筆力と資料性に感動しました。日本アパッチ族からの切り口は、太平洋戦争絡みの特番が放映される時期にタイムリーです。

  • #2

    小形克宏 (水曜日, 15 12月 2021 01:36)

    お誉めにあずかり光栄です。明治だけでない千代ヶ崎砲台跡の魅力を、たくさんの人に知っていただけるとよいのですが。

  • #3

    外川昌宏 (月曜日, 27 12月 2021 13:26)

    「アパッチ族と千代ヶ崎砲台」を興味深く読ませていただきました。
    戦後、鉄屑が高値で取引されたために、様々なところから金属が持ち去られたことは、知ってはいましたが、この様に多くの資料で裏付けされた文章でさらに深く知ることができ感謝いたします。
    横須賀は様々な軍事施設があり、千代ヶ崎砲台と同様戦後すぐにその多くのところで施設を破壊し金属の略奪が行われたと思います。千代ヶ崎砲台跡が国の史跡として公開されていることは、当時のこのような現実を知ると共に、二度と戦争を起こしてはならないという意識を持ってもらうための重要な史跡にしていくことが必要だと思いました。

  • #4

    小形克宏 (火曜日, 28 12月 2021 23:33)

    外川さん、うれしい感想をありがとうございます。史跡というものは、遠く過ぎ去った昔をリアルに想像することができる場所だと思います。千代ヶ崎砲台跡は明治だけでなく多くの時代の史跡であるわけで、大切にしたいですね。